河南嵩山少林寺発祥の少林武術と日本への普及

日本への初期伝播 – 歴史的接点と伝承

中国発祥の少林武術が日本に伝わった初期の経緯には、いくつかの段階があります。中世から近世にかけて、禅僧や武術家を通じて断続的に伝来した記録が残されています。

中世の僧侶交流

最初期の接点としては、鎌倉時代から室町時代にかけての禅宗交流が挙げられます。元代の1321年(元・至治元年)には日本の僧・大智が嵩山少林寺を訪れ修行したとの記録があり、これが日本人と少林寺の初めての接触でした[参考]。続いて1327年には日本人僧・邵元(しょうげん)が渡中し、五台山や天台山など各地を巡った後、1330年代に嵩山少林寺に長期滞在しました。邵元は少林寺で書記や首座(席僧)を務め、深い仏教学識を有していたとされます。伝説によれば、邵元は当時の少林寺住持・息庵禅師から少林武芸を学んだとも伝えられます。1347年に帰国した邵元は日本で高僧として迎えられ、多くの弟子に禅と教えを広めました。ただし、邵元が実際に中国で少林拳法を修得し日本に伝えたかどうかは定かではなく、この点は検証を要する説です。

江戸初期の拳法伝来

少林武術がより明確な形で日本武術に影響を及ぼした例として有名なのが、明末の武術家・陳元贇(ちん げんぴん、Chen Yuanyun)の来日です。陳元贇は浙江省出身で、祖籍は河南洛陽とも伝わり、若い頃に嵩山少林寺で武功を研鑽した人物です。彼は1619年(明・万暦47年)以降、明朝の外交使節に随行して江戸幕府との交渉のため来日し、その後日本に留まりました。京都や長州藩(萩)で文人と交流し、名古屋の尾張藩にも仕えるなど各地で才能を発揮しました。陳元贇が日本に滞在中、少林寺で修得した拳法を人々に教えたとされ、江戸には「起倒流拳法碑」という石碑(1779年建立)が残っています。その碑文には「拳法之有伝也,由明人陳元贇而始。」(日本に拳法の伝わるは明人・陳元贇に由るに始まる)と記されており、近代の日本研究者も「陳元贇来日前、日本に『拳法』なし」と評しています。これにより、陳元贇は日本拳法(唐手術)の始祖とみなされています。

陳元贇の弟子たちは彼の拳法をもとに幾つかの流派を興し、それが後の柔術体系の発展に寄与したと考えられます。陳元贇は1671年に名古屋で没しましたが、その後日本では柔術諸流派が興隆し、19世紀末に嘉納治五郎がそれらを統合して近代武道・柔道を創始しています。この流れから、「実は日本の柔術・柔道にも少林寺拳法の源流があるのでは」という説が生まれました。もちろん、江戸初期から明治期への長い時間と多段階の変容がありますので、陳元贇の少林拳=柔道の直接的祖先というのは簡略化された見解です。しかし、江戸時代に中国由来の拳法が伝わり日本武術に刺激を与えたことは史実であり、これは少林武術が日本に根付いた初期の重要な事例といえます。

琉球を経た影響

また中国拳法の影響は日本本土だけでなく琉球王国(沖縄)にも及び、後世の空手に反映されました。沖縄空手の主要流派の一つ「小林流(しょうりんりゅう)」は、その名称からして漢字で「少林」に通じます。1933年に知花朝信が命名したこの流派名は、首里手系統の古伝空手を「少林の流れ」と位置づけたものです[参考]。他にも「松林流」や「少林寺流」といった流派名が沖縄で生まれており[参考]、中国福建系の南派少林拳の影響を意識していたことが窺えます。ただ、これら沖縄空手の源流は福建南少林や中国南拳に求められるもので、嵩山少林寺そのものとは直系の関係はありません。しかし「少林」という言葉が東アジアの武術文化圏でブランド的に重んじられていたことの証左として、空手界にもその名が冠されたといえるでしょう。日本人にとって「少林」は強さと武術の象徴であり、空手家たちが自らの武術を誇るために中国の少林へルーツを求めた心理もうかがえます。

近代~戦前の交流

明治以降、日本は近代武道(柔道や剣道、空手など)の整備に注力し、中国武術との交流は一時途絶えがちでした。しかし20世紀前半になると、再び日中間で武術交流の試みが現れます。戦前の満州(中国東北)では、日本の武道家や軍関係者が中国武術家と試合をしたり、逆に武術を学ぶ例もありました。有名なところでは1910年代に霍元甲や李書文、王子平といった中国拳法家が上海や奉天で日本人柔道家・軍人を打ち負かした記録が残り、一方で1930年には中国の中央国術館長・張之江率いる武術団が訪日して日本の柔道家と交流試合を行った史実もあります。もっとも、この頃の日中武術交流はしばしばナショナリズムを背負った対決色が強く、文化交流というより威信を懸けた戦いの様相も呈しました。そのため友好的な相互研鑽の雰囲気は薄れ、深刻な負傷者や死者まで出す事態にもなっています。

しかし、そのような時代でも静かに技を求めた人物がいました。日本人の中で戦前に中国へ渡り少林拳法を学んだ一人に宗道臣(本名:中野誉夫)という僧侶がいます。彼については次の節で詳述しますが、1930年代に中国東北で少林拳を修行し、戦後日本で「少林寺拳法」を創始した人物です。宗道臣は少林寺にも1936年に赴いて修行したと言われ、戦火を超えて少林武術の火種を日本に持ち帰りました。彼のような存在は、日本への少林武術伝播の近代的な架け橋となり、後の大きな普及につながっていきます。

以上のように、日本への少林武術の伝播は、中世の禅僧による文化交流から、江戸期の拳法伝来、琉球武術への影響、そして近代の個人交流へと、点と点が時代を超えて線となるように連なっています。文献的に裏付けられた部分と伝説的な部分がありますが、その断片を繋ぎ合わせると、中国の「少林」の武芸に対する憧れや関心が日本人の中で脈々と続いてきたことが浮かび上がります。