姉妹都市・地方自治体交流 – 地域レベルでの普及と協力
日中平和友好条約締結(1978年)以降、少林武術を含む文化交流は国レベルのみならず地域自治体レベルでも活発になりました。とりわけ1980年代以降、日本の自治体と中国の自治体が結ぶ友好都市(姉妹都市)提携が盛んになり、その中で少林寺の所在する河南省や登封市と日本各地との交流も行われています。
たとえば河南省の省都・鄭州市は1981年に埼玉県さいたま市(旧浦和市)と友好都市提携を結びました[参考]。鄭州市は嵩山少林寺が位置する登封市を管轄する都市でもあります。提携以来、双方の市民訪問団の派遣や文化交流が継続され、相互理解と協力関係の深化が図られてきました[参考]。実際、旧浦和市の市民訪中団が現地を訪れた際に少林寺を見学したり、逆に鄭州側の代表団が日本を訪れて少林功夫の演武を披露する、といった交流エピソードも伝えられています。こうした自治体交流を通じ、少林武術が一種の「文化外交ツール」として機能した面があり、地元市民に中国文化への理解を深める機会を提供しました。
河南省全体でも、日本との友好提携がいくつも結ばれています。省レベルでは1986年に三重県と河南省が友好関係を樹立し、市レベルでも洛陽市と岡山市(1981年)、開封市と埼玉県戸田市(1984年)、新郷市と大阪府柏原市(1990年)など、多数のペアがあります。これらの提携都市では、記念行事や文化交流イベントにおいて少林寺武僧団の招待公演や武術演舞が催された例も多いと伝えられます。また日本側から河南を訪れる訪問団が登封の少林寺で歓迎式典に参加し、少林功夫の実演に拍手を送る光景もあったようです。これらは公的記録として残らないこともありますが、地方自治体レベルで少林武術が一つの交流コンテンツとなっていたことは確かです。
宗教文化の側面から見ても、少林寺と日本各地の寺院・団体との絆が築かれました。戦後日本に少林寺拳法を広めた宗道臣は、日中関係が正常化した1970年代後半から少林寺との直接交流を深めました。1979年4月、宗道臣は実に44年ぶりに嵩山少林寺を訪問し、当時荒廃していた寺院の復興支援を申し出ています[参考]。この訪中は「祖庭への帰山」と呼ばれ、日本少林寺拳法側にとって少林寺を「心の故郷」と再確認する象徴的な出来事でした。その後、日本少林寺拳法連盟は少林寺の復興に多大な協力を行い、寺院修復資金の寄付や少林寺敷地内への希望小学校建設支援などを行いました。特筆すべきは、1982年に公開された中国映画『少林寺』の製作にも宗道臣が協力し、資金や技術提供で少林寺側を支援したことです。映画の成功は少林寺と少林功夫を世界的に有名にしましたが、その裏には日中武術団体の友好協力があったことは注目に値します。
さらに、2019年には宗道臣の娘・宗由貴師家をはじめ日本少林寺拳法連盟の代表団60名以上が少林寺を訪れ、「归山40周年記念」行事が開催されました。少林寺の釈永信住職と宗由貴師家らが少林寺塔林に記念の桜の木を共同で植樹し、日中友好の象徴としました。桜は日本の国花ですが、その花が中国嵩山の地で根付き、両国友誼の証となった意義は大きいです。このエピソードはメディアでも報じられ、日本のニュースでも「少林寺に桜咲く、日中武術交流の結実」と紹介されました。宗由貴師家は挨拶で「40年前に訪れた際は荒廃していた少林寺が、今や見事に復興している」と感慨を述べ、今後の両国関係の発展に期待を寄せました。
このような地方・民間レベルでの交流は、政治とは距離を置きつつ文化面での相互理解を育む役割を果たしました。特に少林武術は視覚的なインパクトが強く、言葉が通じなくとも演武ひとつで拍手喝采を共有できます。そのため地方自治体のイベントで少林拳の演舞が披露されると、多くの日本人市民に中国文化への親しみが芽生えました。
一方で、こうした交流では政治的主張を前面に出さず「武を以て友を会す」(武術をもって友と会う)という精神が貫かれている点も注目に値します[参考]。少林武術節のモットーでもあるこの言葉通り、互いに拳を交えてもそれは競争でなく友情の契機であるという考えが共有されています。地方交流における少林功夫の普及は、その精神面でも両国の懸け橋となっているのです。